渋谷、SOA TOWERの8階。9月3日の夜、40人ほどで埋まった部屋に、美術ジャーナリストの鈴木芳雄と、写真家の瀧本幹也が並んで座った。アートコミュニティ「ビジュツヘンシュウブ。」が主催する対談のタイトルは、「杉本博司をずっと追いかけている。」。7月に岩波書店から刊行された『スギモトノート 銀塩写真技法』を軸に、二人が語り合う二時間である。結論から言えば、この夜に見えてきたのは、杉本博司という作家の異様なまでの手つきと、それを面白がってしまう人間たちの姿だった。

茅ヶ崎の海を、月明かりで撮る
話は、前日に開幕したばかりの瀧本の個展から始まった。茅ヶ崎市美術館「瀧本幹也 LUNATION 朔望―海から天体を読む」。国内の公立美術館では初となる大規模個展だ。
依頼のひとつに「茅ヶ崎の海の新作を」というものがあった。だが瀧本は、そこで立ち止まる。
「茅ヶ崎の海というと、明るい昼間の青い海で、しかもサザンの曲が聞こえてくるみたいな感じが、ぱっと思い浮かんだんですよね」
誰もが思い浮かべる絵を、そのまま撮っても仕方がない。そこで選んだのが、月明かりに照らされた海だった。月の満ち欠け=LUNATIONという軸が立ち上がり、それが会場構成そのものになった。一階は宇宙的な視点から撮られた作品を、地下へ降りるとコロナ禍以降、地面に転がって空を見上げるように変わった視点の作品を。外へ向かっていた眼が、内へ潜っていく。

会場の造作にも話が及んだ。アクリルの図録の表紙は、透明なのにエッジだけが青く光る。どうやっているのか、と鈴木が食い下がる。瀧本の答えは拍子抜けするほど手作業だった。鏡面に塗料は乗らない。だから背の部分だけをざらつかせ、しみ込まない塗料を探して、スプレー缶から車のタッチペンまで十種類ほどを事務所でテストした。「僕が結構、塗ったりしてて」。

二千本のレンズと、鉛の入ったガラス
この夜の対談は、「ビジュツヘンシュウブ。」による『スギモトノート』刊行記念シリーズの二回目にあたる。一回目は8月29日、エッセイストの松浦弥太郎を迎えた回だった。その前回の記憶から、鈴木がふと道具の話を持ち出す。松浦が愛用するライカのレンズを尋ねたら、ノクティルックスのF1.2だと返ってきた。それ、瀧本さんと同じじゃないか、と。
「一体あのレンズ、日本に何本あるんだろうって思うんだけど」

瀧本が即座に応じた。「生産本数は、2,000本くらいと言われていますよね」。1960年代、非球面レンズの先駆けとしてドイツで作られた一本である。ピントに神経を使う写真家ほど手放さない。ただし性能でいえば、周辺がふわっとする。今の技術基準では「ダメ」と判定されてしまうレンズだ。
それを、瀧本はこう言い切った。
「むしろ、エラーがある方が面白いじゃないですか。人も、エラーがある人の方が面白いじゃないですか」
話はガラスの成分にまで及んだ。昔のレンズは、ガラスを固めるときに鉛を入れる。その鉛が黒の出方を左右する。鉛を極力減らすことを理想とする現在、同じ設計の復刻版も出ている。瀧本は当然のように撮り比べていた。似てはいる。似てはいるが、何かが違う。「レンズを作るとき鉛を使ったとしても、そのレンズを捨てて、それが有害な廃棄物になったりしないんだから、別にいいんじゃないか」とドイツの開発者に言ってみたこともあるという。結局、研磨の工程で鉛が舞うから難しいのだと返された。

銀塩写真の世界でも、銀の使用量が減り、フィルムも印画紙も変わってきた。素材が変われば、出てくるものが変わる。それを承知したうえで、あえて古い方を選ぶ——この執着の質は、のちに語られる杉本博司の手つきと、まっすぐに地続きだった。
一九九六年、真っ黒な海
二人が杉本博司と出会った瞬間は、まったく違う。

瀧本は1996年ごろ、東京都現代美術館のグループ展で「夜の海」を観た。漆黒で、近づかなければディテールが見えてこない。「なんだ、この写真を撮る人は、と思って」。当時まだ写真家・藤井保の助手だった彼は、「黒すぎて、これ印刷できるのか」とオリジナルプリントを見て思ったという。
鈴木はもっと早い。1988年、佐賀町エキジビット・スペースから郵送されてきたプレスリリースに、キャビネ判の紙焼きが二枚同封されていた。(ジオラマの)白熊と、劇場。「その瞬間に分かった。この人、ただ者ではないと」。

もっとも、当時の日本で杉本の名は、まだ通っていなかった。鈴木がブルータス副編集長として2005年に組んだ特集のタイトルは、その名もずばり「杉本博司を知っていますか?」。編集部十二人のうち、知っていたのは編集長と鈴木の二人だけだったという。特集では海外と日本の写真・美術系の学校等で「出口調査」まで行った。海外では知られ、日本では知られていない——その結果を出したかったのだと、鈴木はあっさり明かした。
「そんなの無理かもしれない、みたいなことは、まず考えないんです」
企画の立て方を問われたときの言葉である。無理なところから始めて、だんだん妥協していく。若い頃から訓練したのはそれだけだ、と。
ノートは、なぜ英語で書かれていたのか
対談の中心は、やはり『スギモトノート』だった。スクリーンに映し出されたのは、杉本自身が書き継いだ撮影・プリントのメモである。

まず二人が憎いと感じたのが、記述がすべて英語であることだった。アシスタントに渡す指示書ではない。あくまで自分用の控えなのに、覆い焼きは「dodging」、焼き込みは「burning-in」と書かれている。「発想が英語なんでしょうね」と鈴木。
なぜそこまで克明に残すのか。理由は明快で、販売するエディションを安定して世に出すためだ。一度にプリントできるのは五枚ほど。記録がなければ、次に焼くときにまた試行錯誤が始まってしまう。現像液はD-23、華氏68度——摂氏でおよそ20度——で6分。薄めのネガをつくるレシピまで、そこに残されている。
技術的な話題になると、瀧本の解説が効いた。杉本が8×10のカメラの中央に4×5のポラロイドホルダーを装着し、画面の真ん中だけをテスト撮影していた件について、彼はこう言った。8×10のポラは明るさが正確に読めない。モノクロの4×5のポラのほうが、露出の参考データとして信頼できるのだと。

もうひとつ、建築シリーズの「無限遠の倍」。レンズボードを無限遠に合わせ、さらにレンズボードの位置としてはその倍の場所まで送って、意図的にピントを外す。ビューカメラだからこそできる操作だ。瀧本は同業者としてこう受けた。「建築を撮るときに、ルーペを覗いてフォーカスが甘くて、これ綺麗だな、と思うときはあるんですよ。ただ、それだと杉本さんになるなと」。
165mmのスーパーアンギュロン一本で、劇場もジオラマも建築も撮る。絞り開放だとF8のレンズだが、杉本はF11半を好む。F11とF16の中間、という意味であって、実質的にはF11.5ではなく、F13.5くらいに相当する。
バスルームの暗室と、一泊1,200ドルのスイート
ノートは、撮影現場の実態も浮かび上がらせる。
京都・三十三間堂の千体仏を撮ったとき、杉本は向かいにあるホテルの部屋を借り、アシスタントのバスルームを暗室にした。深夜にフィルムを装填し、撮影は朝五時から。太陽の光が直接、仏像に当たる角度で撮りたかったからであり、九時を過ぎれば見学者が来るからでもある。8×10にクイックロードはないため、ホルダー十個=一つのホルダーには表と裏で二枚のフィルムが入るので一日二十カットが限界だった。

装填を暗室にこだわったのは、埃を嫌ったからだ。フィルムに埃が乗れば、その部分は素抜けになり、プリントでは黒い点や線として現れる。黒い汚れの修正は、白で潰してからグレーを重ねるという気の遠くなる作業になる。「あれが一番大変なんですよね」と瀧本もうなずいた。
ニューヨークの建築シリーズでは、ワールドトレードセンター、グッゲンハイム、国連ビル、シーグラム——撮るべき建築のリストがノートに並ぶ。火曜と金曜は路上駐車禁止、脚立が必要、といった実務メモまで添えて。クライスラービルは、パンナムビル(現メットライフビル)の途中階のテラスから撮られた。知り合いがそのオフィスに勤めていて、撮らせてもらえたのだという。1997年のワールドトレードセンターは、向かいのホテルのスイートからしか撮れなかった。一泊1,200ドルの部屋に、アシスタントも連れず一人で泊まって撮ったのだという。

丸いファインダーを覗いていた少年
終盤、話は二人の来歴に向かった。
瀧本は11歳のころ、実家の近くの丘でマンション建設のために掘り返された遺跡を、一人で見に行っていた。眺めのいい場所だから人が住んでいた。かまどの跡がある。どんな人たちがいたのだろう、と空想する子どもだった。同じころ、天体望遠鏡にカメラを付けて星を撮り始める。
「ファインダーって、丸なんですよ」
丸い世界を、四角く切り取る。フレーミングという行為の原体験がそこにあった、と彼は言う。しかも望遠鏡で見えているのは、数万年前に発せられた光である。過去への強い憧れ。今回の展示には、そのことを綴った瀧本自身の手書きの言葉が、資料として並んでいる。実はこのコーナー、二週間前まで展示する予定はなかった。ウェブ記事で「子どもの頃の天体写真が展示される」と先に書かれてしまい、「これ、入れたほうが面白いかも」と思い直したのだという。

杉本は鉄道少年で、瀧本は天体少年だった。杉本は一般大学を出て就職も家業も継がず、ロサンゼルスのアートスクールへ渡り、ニューヨークへ。瀧本は高校を中退し、16歳で名古屋の写真館に入り、東京のスタジオを経て19歳で藤井保のもとへ。二人とも、写真学校や大学の写真学科というルートを通っていない。
そのことを並べながら、鈴木が漏らした一言が、このトークの核心だったと思う。
「ずっと引きずれる、幸福な職業なんだよ」
幼い日に自我が芽生えたとき考えていたことを、そのまま仕事にして引きずり続けられる。そんな職業は、そう多くない。
ちなみにこの日、瀧本はボイジャー1号の話題にも触れていた。1977年に打ち上げられた探査機が、まもなく地球から「1光日」の距離に達する。実際、その到達は2026年11月とされている。丸いファインダーを覗いていた少年の関心は、五十年前に旅立った機械の現在地にまで、いまも素直に伸びている。

まとめ
技法の話は、しばしば作品の外側の話として扱われる。けれどこの夜に語られたD-23の6分や、バスルームの暗室や、一泊1,200ドルのスイートは、どれも「そこまでやる」という一点で繋がっていた。作品とは、その執着が沈殿したものなのだろう。何かを面白がり続けている人の話は、分野が違っても、なぜこんなに聞いていて気持ちがいいのか。その答えの一端を、持ち帰った気がしている。

Profile:鈴木芳雄 / Yoshio Suzuki
美術ジャーナリスト。ポパイ、アンアン、リラックス編集部などを経て、ブルータス副編集長を約10年間務めた。担当特集に「奈良美智、村上隆は世界言語だ!」「杉本博司を知っていますか?」「若冲を見たか?」「国宝って何?」など。現在は合同会社美術通信社代表として、雑誌・書籍・ウェブでの美術記事の執筆や編集、展覧会の企画や広報を手がけるほか、美術を軸にした企業戦略のコンサルティングも行う。明治学院大学、愛知県立芸術大学で教鞭をとる。アートを巡る、知る、伝えるコミュニティ「ビジュツヘンシュウブ。」ナビゲーター。共編著に『村上隆のスーパーフラット・コレクション』『光琳ART 光琳と現代美術』ほか。
Profile:瀧本幹也 / Mikiya Takimoto
写真家・撮影監督。1974年、愛知県生まれ。幼少期に天体観測に親しみ、11歳で望遠鏡にカメラを装着して天体写真に魅了される。関心はやがて「惑星としての地球」へと向かった。16歳で写真の世界に入り、藤井保に師事したのち1998年に独立。広告写真からコマーシャルフィルムまで幅広く手がけ、是枝裕和監督『そして父になる』『海街diary』『三度目の殺人』、Netflixシリーズ『阿修羅のごとく』では撮影監督を務めた。作品にモンゴルの遊牧民を撮った『MONGOLIAN TRIBE』(1997)、『LAND SPACE』(2011)、『GRAIN OF LIGHT』(2014)など。作品はメトロポリタン美術館、フランス国立図書館、東京都写真美術館などに収蔵されている。
URL:https://mikiyatakimoto.com/
開催情報 ビジュツヘンシュウブ。presents「杉本博司をずっと追いかけている。鈴木芳雄 × 瀧本幹也 対談」 2026年9月3日(木)19:00〜20:30/オシロ株式会社(東京都渋谷区渋谷1-3-3 SOA TOWER 8F) 書籍『スギモトノート 銀塩写真技法』(岩波書店/杉本博司 著、鈴木芳雄 聞き手・文/2026年7月17日刊行)刊行記念
展覧会情報 「瀧本幹也 LUNATION 朔望―海から天体を読む」 茅ヶ崎市美術館/2026年9月2日(水)〜11月8日(日)/10:00〜17:00(入館は16:30まで) 観覧料:一般1,200円、大学生1,000円、市内在住65歳以上600円(高校生以下・障がい者およびその介護者は無料)
Writer:新居祐介 / Yusuke Arai
京都出身。ビジネスプロデューサー。東京を拠点として、写真や音楽制作を行うと共に、IT・広告・写真関連の会社のマネジメントや経営者を歴任。プロデューサーとして著名メディアアーティストの大規模写真展及び写真集・作品販売のプロデュースや、写真コンテンツを活用した各種新規事業・イベント・企業タイアップ等のプロデュースを行う一方、フォトグラファーとして、各種Webメディアでの著名人・文化人の撮影や企業イベント取材等の撮影を行う。 Instagram:https://www.instagram.com/ysk18r/
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この記事はAIエージェントによる記事制作プラットフォーム「sonata」を使って制作されています。
